昭和41年05月14日 夜の御理解
甘木の初代安武先生がおられ大変な御比礼を甘木の土地に頂いて居られた。その時分の話なんです。大変その遠隔地からどんどんお参りがある。皆んながそのおかげを頂いて帰る。所が不思議に地元の者、甘木の近所の人達がおかげ受けんとはどう云う訳で御座いましょうかとお尋ねした時、先生が仰ったそうですね。近所の人達はあの安武さん、安武さんと思うて来る。そこの金光さんとこう、思うてやって来るだから。
そこの金光さんがたの働きしかないのだ。安武さんだけのおかげしか頂かぬと言われたそうです。遠隔地から来る人は、本当に甘木には安武と云う、生神様の様な人が居られると云うて来るから、生神様のような御比礼になるのだと云われたそうです。これは教祖の神様のお話にも、こんなお話が御座いますね。ほんとに、このひとつの権威を持っておる人の言葉と云うものは、素晴らしい事ですけれども。
どんなに権威があっても、力がどんなにあっても矢張り。金光様の場合でも、百姓文治と云うたら百姓文治だけの働きしか現されなかった。大谷の金光様は、大谷の生神様と言うて、皆が参って来るからおかげになるのじゃと仰っておられる様に、いくら権威のある人でも相手がそれを信用しなかったらおかげにならぬ。同時に権威を持つ事、権威があると云う事。それは確かにおかげを頂きよいと云う事になりますですね。
例えばお医者さん達、特に名医と云われる様な人から、例えば診察を受けたら、これは心配いらんですよと言われたら、本当に心配ない様な気持になって来る。それは医学の大家名人の人が、あんたのは心配要りませんよと、言われたらそれで、病気が治った様な気がする。とは反対に名医と言われる人達が、医者から手を握って貰いますと、これはあんたのはと、首を振られると、もう今まで元気だったのが、一辺に力が抜けて仕舞う様な、事実がありますでしょう。
矢張り権威がそうさせるのです。どうでもおかげ頂かなきゃならん。今日も、ここに善導寺から青木さんが、矢張り青木と云う女学校時代のお友達を、大体福間の方ですから、彼方でしかもこちらに縁について来て、縁について来た、ところが自分も青木、この方も青木と云うので、まあ心易く付き合っているのです。久留米の水天宮さんの前にある、青木と云う大きな燃料の、問屋さんだったそうです。いろいろの悩みがあってお願いに見えられたんです。
けれどもその第一は息子さんの縁談の事で見えられた。もう一人息子さんで娘さんは居られるそうですけれども、なかなか実意なんだそうです。ですからあちこちから貰ってくれ、あそこはどうか、相手の人があるんですけれども、それが不思議と気に入ったのが全部猿年だそうです。その私がですね、もうその青木さんの娘さんも猿年だそうです。その娘さんの婿さんが或時病気されて入院された時に。
もう女の猿年と云うものは、決して貰うもんじゃなか、女の猿年と云うものは、絶対ひのえ午より悪かと、云う事を聞かされて、それ以来、猿年と云うのは、外の事には迷わんばってん、猿年だけにはどうしても、息子の嫁に貰うのに。猿年の女の人は貰われんと思い込んでしまってる。という訳なんです。今日お伺いに見えたのも、大変本人の器量もよし、御両親もよし、もう言うとこは無いのだけれど、猿年と云うだけで、困っておられると云うことでした。
それで猿年の人が家に来て貰うて不幸になられたら家も困りゃその人も困るけんで、そんならとにかく椛目の先生にお伺いしてから腹を決めなさい。と云うてその此処に見えた訳です。私もこんこんとその事を申しましたから。分かりました。おかげ頂きましたと云いよんなさるもんとばかり思うとったんです。丁度お昼でしたからあちらでお茶ども上げましてから私も下がりますので、そしてお茶のお話の中で、先生今日は青木さんのおかげで、ほんとに助かりました、私の世界が拡がりました。
今までは猿年と言うこれだけで、自分の世界を狭うしとった、所が先生にお目にかかった時に、これでおかげ頂いた。猿年そんな事迷信ですよと、言われたら一辺に私の心の中が開ける様な思いでございます。私も猿年の娘を持っとってそしてその猿年はいかんいかんと息子の嫁に来て下さる人が猿年の人が多いけれども、どんなによかっても猿年はいかんと断わり続けて来たんです。
けれど、何かしらここに、因縁めいたものを感じて、踏ん切りがつかんでおりましたら、椛目におかげを頂いて、初めて自分の心の中が広うなった、と云って喜ばれるんですね。ちょうど久富さんも見えておりました。久富さんお茶を入れ乍ら話されるんです。やっぱり、青木さんと云う方なんですけど、そして言われるのに、先生私ここに、お友達と一緒に座らして頂いて、先生がそう言われる事に、はあこの先生の言われる事なら、ほんな事とこう思うた。
私は一番初め喉の所を見ました。私しゃどうかアナナイ教の教主と云う方と一辺お合した事がある。その方が喉仏が全然出ていない。それで余り不思議に思うてお付の人に聴いた。そしたらね、生神様とか生仏様になる人はここに喉仏がないそうですよ。ああたいい所に気が付かれましたですねと言われたそうです。ここに来てからその事頂いて。私の何処を一番初め見られたかと云うと喉を見られた。
はあ青木さんがそりゃ生神様のごたる人じゃけんでと言っちゃああったごたる風ですたい。それで一番口この喉のところを先生に喉仏がない。こりゃ生神様に違いはないと思うたげな。生仏様の言われる事だから、いわゆるここに権威を生仏様の権威を神様持たして下さった事であろう。又そこに打たれなさった訳です。ですから特に御取次でもさして貰う者は、喉仏のある者は出来んかというとそんな訳でもないでしょうけれども、やっぱり男はもう大体ありますもんね。
けれどもそう言われますと、私しゃほんなこつ喉仏はなかたいと思うてから、そんなら今日は繁雄さんあんたまちっと私を神様んごつ扱わにゃ出来んばの、アハハそう云うて笑ろうた事なんですけどね。その人はそう確信して居られる訳です。アナナイ教といえば、大変な新興宗教なんです、そこの教主という人がやっぱり皆んなから生仏様と言われる人、その人が喉仏が無い、お付の人が言わっしゃた。
あなたよ個所に気が付きなさったここに喉仏の無い人は、生仏になられる方です、と言うてそのお連れの人が言われた訳です、ここに来て一番始に見つけたのは、私に喉仏の無い事であったとこう言われる。こりゃほんとにひとつ、生神様にならにゃいかん人と思うんです、けれどもですね、そこにはやっぱり神様が自ずとです、その人の意と言うでしょうかね、権威をもつけて下さらねばならんから、そう言う意味でもお取次ぎさして頂くものは、ぼやぼやしとってはいかんなと私は思いましたですね。
ある意味ではやっぱりお徳を受けて、おかげを受けて成程この先生の言わっしゃる事をならほんな事じゃろと思われる位なです、態度と立派さが必要だとおもうですね。これはまあ取次ぎ者に対するものだと私は感じました。同時の権威をもった人の言葉というものは、こんなにも拍手の心をそれこそ心の中に光が灯る様に、今までそこに自分の世界が狭くなっておった。
猿年がここにうったまってしもとった、これがいっぺんに取り払われる、と言うて、今日は喜んで帰られた事で御座いませが、そう云う様な事からでもです。如何にその権威と思って、私共の上に現れて下さる神様のお働きを、私共が信じる稽古をせねばならんかと言う事が分ります。天地の親神様のですね、例えば信心も出来ん者がです、それこそ奇跡的なおかげを受けるのは、氏子が信心が出来たからではない。
神の権威にかけて奇跡を見せると仰る、神の権威にかけてこういうお働きに、例えばここで言うなら、盲目が眼があいたとか、ちんばが立ったとかち、とかいう例がいくらでも御座いますでしょうが。これは天地の親神様の権威にかけての氏子に、そういう印を見せるのだ。そこで私共も信心の稽古をさせて頂いて、天地との継ながりを密接にして、天地の親神様のお働きを自分の身体で、心で、又目で耳で、それを感得出来感じれれる様なおかげを頂くと。
神様が絶えず私共にささやきかけて下さる事が分って来ると、それこそ子供の泣き声からでも、神がものを言うて聞かせると仰るのですから、心をそこに寄せておかなければ、それが分らんのです。ですから神様が左と言いござるというものを、自分の生活のうえにでも感じ取れる所迄、お互いに信心のけいこをさせて頂いて、そういう大変を権威をもって御座る神様のお言葉を、お言葉として、信じれれる様になれた時に、私共がほんとの幸せと言うのじゃないでしょうか。
どうぞ。